23年前、いわゆる「角栄裁判」で田中角栄元首相の「有罪ありき」の言説が相次いだ。それに異を唱える意見はかき消された。その意見の存在自体が許されないような雰囲気であった。
そんな中で、雑誌「諸君」(文芸春秋社)は、数ヶ月にわたり「論争」を掲載。有罪の立場に立つ意見だけでなく、それに対する反論などを掲載した。
今夏、実家の本棚から23年前の「諸君」を見つけ出した。まだすべての評論を読み返したわけではないのだが、その中で石島弁護士に対するインタビュー記事は、刑事裁判の原則とその基本的な認識の枠組みを再認識する上で大変役に立った。なお、石島弁護士はすでに鬼籍に入られた。
雑誌「諸君」1984年5月号では「角栄裁判」は司法の自殺だ!と題して編集部が石島泰(いしじまゆたか)弁護士にインタビューをしている。
その中で弁護士石島泰氏はロッキード事件一審についてその問題点を語っているが、その前段階として、25頁から33頁に刑事裁判の基本的な考え方を述べている。
以下、刑事裁判の基本的な枠組みを語った部分からポイントを要約して抽出した。
◎「刑事被告人としての基本的人権」は絶対に擁護されなければならない。
◎戦後制定された日本の憲法や刑事訴訟法は刑事被告人の基本的人権を守るために幾つかの保障条項を規定している。・・・たとえ十人の犯人を逃がすことがあっても、絶対に一人の無辜も罰することがあってはならないという、近代刑事裁判における崇高な人権思想の制度的表現にほかならない。
◎近代国家においては、行政権力が国民に対して処罰を要求する、その処罰によって決して国民の基本的人権が侵されることがないように、それを司法権力というもう一つの国家機関がチェックする、それが、近代国家における刑事裁判の本質的機能になる・・
◎基本的人権というのは、本質的に国家によって侵されやすいもの。基本的人権というのは天賦付与の権利だ、というような言い方がよくされるが、実はそうじゃない。人民が、長い人類の歴史の中で、知恵を出し、血を流して国家に約束させたもの。決して天から降ってきたものでじゃない。闘いとってきたもの。
◎司法権力=裁判官の任務は、行政権力=検察官の捜査、起訴、公判維持(立証)のすべてにわたって、これをチェックする。国民の基本的人権が侵されないように、行政権力の手から守る、これが司法権力の本質的な任務。
◎無罪の推定と言うのは、検察官の公訴事実は間違っていると言う前提に立て、ということ。無罪の推定の立場に立って検察側の主張と立証をあくまでも厳しく吟味しなければいけない。
◎もし、世間から極悪人として糾弾されるような人間の刑事裁判について、世間がその人間の断罪を望むあまり、もしその人間の刑事被告人としての基本的人権が侵害されることを許容したり、不問に付すようなことがあれば、実はそれはすべての国民にとっての基本的人権という堤の一角をみずから崩すことになる。
最後の部分は銘記しておきたい。23年経った今でもこの部分の指摘は決して色あせていない。
明日はわが身なのだ。全員が犯罪を犯し被告人になるわけではないのだから自分には関係ないと無関心ではいられない。冤罪で自分が被告人席に立たされることだってないとも限らない。その時、自分を守るべき盾となってくれるのは、近代社会における刑事裁判の基本原則なのだ。誰にでもこの基本原則を保障しなくてはならない。
私的制裁(リンチ)を許してはならないということだ。力のあるもの、発言力の大きいものの恣意的な判断や雰囲気により、基本的人権が侵害されてはたまらないということなのだ。「有罪だ!死刑だ!」の大合唱に流されてはいけない。
一般理論、枠組みをきちんと認識しておくことが大切。それに基づき、具体的な事件について冷静に自分の頭で考えた判断を下さなければならない。
*余談だが、「角栄裁判」について確か「判例時報」という雑誌に中央大学教授の論文が何回か掲載された。余りにも専門的な雑誌だったが、どうにか手に入れて四苦八苦しながら読み始めたことを思い出す。しかし、何回か連載された後、急遽、連載中止になってしまった。この裁判の学術的な研究はとても大切なことだと思ったが、それさえも許されない「空気」が支配していたということだったと思う。
関連=刑事裁判を考える1(先月の投稿参照)
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